boyaki
  

「百姓の来年」と言ういいぐさがある。

今年は良くなるであろうと言う、期待を込めた自らを鼓舞する言葉でもある。
無知でもあり哀れでもある。

「百姓の来年」には何の策もなく、あるのは一方的な希望だけだ。私もこの年になり、来年を実現するには相当な適切な仕掛けが必要だと、遅らばせながら、やっと気づくようになった。

「百姓の来年」でなく「来年の百姓」にならなければならない。


                             
農業の世界では農業で大きく成功した人のなかには、農業外からの転入者が多いことは、よく知られている。
代々農家(私もその一人だが)で育ち、親の背中を見てきた
農業者は、良い意味でも、悪い意味でも、農業の型が出来上がっていてその殻から抜け出せない人が大部分だ。
極論を言えば、農協も市場も社会的使命はおわりつつある。市場のシステムが農業者を無視した制度であろうし、
弱くて、団結力のない農業界など相手にされていない。
ましてや、政府の下請け会社のような農協に期待すること
さえ期待はずれだ。
以前(2〜3年前)無能で名を上げたT農林大臣の唯一の
名言「農協解体論」こそ必要な時に成ってくると思われる。
ちなみにT氏はその後、要職につき小泉の言いなりになり、
ますます、地方や農家をないがしろにした。
少しばかり余談が過ぎた。ごめん。

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ぼやきは、百姓の専売特許でもある。

百姓は博打うちでもある。今日までは100点でも一晩の霜で50点にでも0点にでもなる。
秋の台風も然るべき。

我が家も全滅になった経験もある。

簡単な対策がないのが腹打たしい。

そんな事があれば、廃業するのが正解なのだろうが、それでも止めないのも「百姓の来年」だ。